序章 夕暮れと「おはよう」 
 いつからここに居たのかは分からない。
 ただ気が付いたときには、上も下もない闇(やみ)の中に自分だけが存在していた。
 そこに光は一切なく、また音も聞こえない。だからまずは手探りで周囲を確かめようとした。何か触れるものがあれば、この場所について少しは分かるかもしれない。
 しかし、いざ動こうとしたところで――はたと気付く。
 どうやっても手足に力が入らない。まるで意識と肉体が切り離されたようだった。そもそも地を踏(ふ)む感覚すらなく、だんだんと四肢(しし)が生えているのかも疑(うたが)わしくなっていく。
 仕方なく物理的な方法を諦(あきら)めて次の手段を考える。そうして選んだのは、自身の記憶を辿(たど)ることだった。
 けれど、これもまた失敗に終わる。
 己へと意識を向けてすぐ、何も思い出せないことに気付いてしまったからだ。これまで何をしていたのか、あるいは自身が誰だったかですら、ちっとも浮かんでこない。
 全てがこの闇に隠(かく)されてしまったみたいに、何も思い出すことができなかった。
 ――いや違う。たった一つだけ、思い出せるものがあった。
 それは『何か』を強く『願って』いたこと。それこそ、こんな所に居る暇なんてないくらい大切な願いを抱えていたはずだと。
 それがどんな『願い』だったかすら分からないのに、その事実だけは不思議とすんなり自覚できた。
 とは言えど、未だ出る方法も分からない暗闇の中では何の意味も持たないのだけれど。
 それでも、もしも。仮にここから出られたならば。

 なんて考えていたとき、不意に……光が見えた気がした。
 それはとても弱々しくて、すぐにどこかへ行ってしまいそうなのに、けれども眩(まぶ)しいほどに確かな存在感を放っていた。
 まるで濃霧(のうむ)の夜に浮かぶ月のようなその光を見た瞬間、本能的に「掴(つか)まねば」と思った。
 あの光を手にすれば、自身の大切だった『願い』を思い出せる気がして。
 手を伸ばそうとして自然と力が入る。先ほどまでは感覚すらなかったくせに。
 もうすぐ、あと少し、ほんの僅(わず)かで届く――……


 掴んだ。
 そして理解する。
 ああ、自分の『願い』は――――。



 浮かぶような、沈むような――……。
 何かに包まれて漂(ただよ)うその感覚は、何かに似ているような気がする。とは言え、薄ぼんやりとした意識では、それが何に似ているのかまでは思い出せないのだけれど。
 ただ『彼女』に理解できたのは、暗闇の中で見たあの光がどこにも見当たらないこと。その代わり、自身の中に確かな『何か』が宿っていることだけ。
 それだけを認識し、この曖昧(あいまい)な感覚の中を揺蕩(たゆた)って……どれくらい経ったのだろうか。
 希薄(きはく)だった五感が少しずつ明確になってきたことに『彼女』は気付く。
 それに伴(ともな)い聞こえてくるのは、機械の規則的な電子音と、人の声。
 声の主は一人。大人の女性ということは分かるけれど『彼女』に聞き覚えはない。
「おはよう。お目覚めはどうかな……『――――』ちゃん」
 声が、誰かの名を呼ぶ。つられるように瞼(まぶた)を持ち上げると、視界に映るのは見知らぬ部屋。
 白い天井に白い壁。難解(なんかい)な機器と、そこに映る文字列。
 それから白衣を纏(まと)った、やはり見覚えのない女性が……じぃっと『彼女』を覗き込んでいる。先ほどの声は、おそらくこの人のものだろう。
 ――そして、それら全てが、窓から差し込む夕陽(ゆうひ)に染まってひどく眩しかった。
 目を細めながら『彼女』はゆっくりと上体を起こす。けれどその脳内は次々と浮かぶ疑問を整理することでいっぱいになっていた。
 相手は誰で、ここはどこで、これは一体どういう状況なのか……と。
 混乱する『彼女』の姿を見て、女性は慣れた様子で笑った。
「何が何だか分からない、という顔をしているね」
 告げる女性の目が、何だか全てを見透かしているような気がして『彼女』はどこか居心地の悪さを覚えながら首を縦に振った。
 そんな気まずさに気付いているのかいないのか、女性は気にした様子もなく続ける。
「あはは、大丈夫だよ。君と同じような反応をする子は沢山居るからさ」
「同じような反応……?」
「まぁまぁ、とりあえずそこから出て、こっちに座ってよ。ちゃんと説明するからさ」
 女性に指摘されてやっと『彼女』は自分の居場所に気付く。そこはカプセル状の機械の中だ。
 言われるがままにカプセルを出て、女性が指した椅子に恐る恐る腰を下ろす。
 それを確認した女性は満足そうに大きく頷くと、やがてゆっくりと語り始めた。
 まずは女性の名前が志賀野(しがの)萩子(しゅうこ)であること。彼女は管理協会(かんりきょうかい)の職員であり『彼女』への状況説明を担当してくれていること。実はタイプAのビサニマでもあること。
 次に語るのは『彼女』がビサニマ化したこと。その中でもタイプBと呼ばれるものになったため、生前の記憶がないこと。
 目覚めたときに女性が呼んでいた名前が自身のものだと言われたときは、やけにすんなりと馴染(なじ)む感覚を彼女は不思議に思っていた。
 そうして、ときどき雑談を交えた説明が終わる頃には、太陽も地平線の彼方(かなた)へと沈んでいた。
 ――ビサニマ。
 一度死んだ者を蘇(よみがえ)らせるその技術が発表されてから何十年が経ったのだろう。
 大陸全土を統治する巨大な機関『管理協会』主導のもと研究・開発された『ビサニマ化』の技術は、瞬く間に大陸中へと普及していった。
 この技術さえあれば、愛する人や貴重な頭脳を突然失ってしまう……なんてことも減るわけだから、大勢の人々に歓迎(かんげい)されるのは当然のことだった。
 とは言え、必ずしも肯定的な者ばかりではないのも事実だ。
 何故ならこの技術の恩恵(おんけい)を賜(たまわ)るためには、乗り越えねばならない様々な問題があるからだ。
 まず死者の代わりにビサニマ化を申請(しんせい)する者が必要となること。次に金銭の支払いが必要となったり、それから死者にも申請者にも満たすべき条件があったり……あとは信仰上の問題や、死体を弄(いじ)ることへの倫理的な話なんかも挙げられる。
 他にもビサニマ化した後だって色々な制限が課されてしまうし、初期から改善された部分も多々あれど、否定される理由が消えることはない。
 それでも――ビサニマは、今この時代において、なくてはならないものとなっていた。
 何故なら、人々を『守れる』ものが、現状ではビサニマ以外に存在しないからだ。
 さて、ビサニマと一纏めに呼ばれる彼らだが、実際は大きく二つの種類に分けられる。
 一つはタイプA。生前の記憶を持ち、見た目も中身もそのまま『蘇る』ことができるのだが、代わりに申請の費用はとても高額になる。
 逆にもう一つのタイプBは、見た目こそ変わらないものの生前の記憶をなくしており、また申請の費用も比較(ひかく)的安価なものとなっているため、庶民に選ばれることも多い。
 このように大きな差異(さい)を抱える彼らが、タイプに関係なく『ビサニマ』と纏められることが多いのには理由がある。
 それは、死者が蘇った以外の、とある『共通点』の存在だ。
 この共通点によって、ビサニマ達はこの世界での立場を確立できていた。

 ビサニマ達の『共通点』とは、各々が目覚めた時点から異能力『メモリア』を持つことだ。
 この異能力は一人一人で規模(きぼ)も内容も様々だが、どれも生前の記憶や願望の最も強い部分が由来となり発現する性質を持つ。これが『記憶(メモリア)』と命名されたのも、そこからきていた。
 更に特筆(とくひつ)すべき点は、この異能力の発現に、本人が目覚めた時点での記憶の有無が関与することはない。つまりタイプに関係なく、ビサニマ全員が平等に能力を発現させるのだ。
 そしてこの『能力(メモリア)』が――……今この世界を襲う『脅威』から人々を、世界を救う『鍵』となっていた。



 これは、世界の暗闇に抗(あらが)う者達の、希望(ねがい)と光(すくい)の物語である。